会社では一回りも年下の上司に怒鳴りつけられ、家に帰れば年頃の娘とぶくぶく太った妻に煙たがられ。
 自分の存在価値を見出せぬまますごす日々。今日も通勤電車の中で満員の人に押しつ ぶされそうになりながら思う。


−いつもの駅で降りずに、このまま電車に乗っていったら、どこに行くのだろうー


  会社をサボるわけにも行かず、しかしその欲求は日に日に募るばかりだった。会社のことも、怒られることも、娘に罵られることも、妻にいびられること も、何も考えなくっていい世界。
 そんなものがあるはずがないのはわかっている。しかし、いつも下車する駅を乗り過ごすだけで、何か変わるんじゃないかと考えてしまう。

 そんなはずがあるわけはないのに・・・。
 
「またかっ!!こんな報告書が会議で通るとでも思ってるのか!!?予算もかかりすぎ だし、人員だってもっと減らせるだろうっ!!もっと頭を使え、頭を!!」
「しかし・・・」
「しかし、じゃない!再提出はあさってまでだ。それまでにこれよりいい企画が作れな かったら、ほかの人間にやらせるからな!!」
「すいません・・・。」

 年下の上司に怒られながらすごすごと自分の席に戻る。
 しかし、これ以上どうしろというのだ。これ以上予算を削減すれば、いいものはでき ないし、人員だってこれが最低ラインだ。変更の仕様がない。しかし、やらないと下手すればクビ、何てこともありえる。それ以前に他人に取られたくない。
 どうすれば・・・。いっそのこと、すべてを忘れて遠くへ・・・。

「ただいま〜」
 居間からはTVの音と、洗物をする音。だれかいるはずなのに返事もしてくれない。
「なぁ、お前、おれの飯は?」
「いつも遅く帰ってくるくせに!!あんたのご飯なんかありませんよ!」
「あ、あぁ、すまん。こんど早く帰るときは連絡するよ・・・。」
「まったく!そこにカップめんが入ってるから、それでも食べて頂戴!!」
「すまん・・・」
 お湯を沸かし、カップに注いで居間に行く。そこでは娘が一人でくつろいでいた。
「ただいま。」
「…………」
「返事くらいしてくれたっていいだろう?」
「うるさいなぁ。今TV見てんでしょ?静かにしてくれない!?」
「そうか・・・。すまん・・・。」
 それ以降、何も言わず黙ってカップラーメンをすすった。

 そして、今日も満員電車。ぎゅうぎゅうに箱ずめにされた寿司のような気分だ。
(俺の存在って何なんだろう・・・)
 俺がいて困ることもない。困る人もいない。
 この世界の歯車は俺という歯車がひとつなくなったところで、その動きを止めたりしないのだ。端的に言えば、不必要な部品。
 それが俺・・・。
 俺一人いなくなったって、一時騒がれるだけで、時間がたてばまた何事もなかったかのように動いていくのだ。
 ならば、このままこの電車にずっと乗っていたって・・・。
 
 −誰も困らないー  ー気にしないー  −関係ないー  −ひつよう、ないー

 しかし、そんな度胸もないまま、またいつもの駅で下車するのだ。
 必要のない部品は、それでも何とか、世界を動かす部品でありたいと願いながら、関係のないところで一人空回りするのだ。

 気が付けば、俺は人もまばらになった電車のシートに腰をかけ手すりにひじを付いて目を閉じていた。

 やってしまった・・・。
 ついに俺はいつもの下車駅を乗り過ごし、こうして仕事が恥じまる時間になってもまだ電車に乗っている。
 同僚の顔。
 妻の顔。
 娘の顔。
 さまざまな人たちの顔が浮かんでは消えていく。
 もうういいや。
 誰にも謝らず、誰にも卑屈になることもない。このまま・・・。
 消えてしまいたい。
 俺の意識は少ずつ闇に落ちていった。

 それは俺が子供のころの夢だった。
 幼いころの俺は、親に買ってもらった万華鏡がとてもお気に入りだった。
 その万華鏡が見せてくれる景色は、幼い私を飽くことなく魅了し続けていた。家に一人でいるときは、ひと時もその万華鏡を手放すことなく、眺めていた。万 華鏡から見える景色はまさに大人になった今の俺が求めている別世界そのものだ。
 しかし。
 しかし、その万華鏡は一人の心無い人間にこわされてしまったのだ。
 あまりの俺の落ち込みように、親は新しい万華鏡を買ってくれた。
 でもだめだった。あの万華鏡でなければだめだったのだ。
 その当時の俺は、万華鏡が見せてくれる景色がすきなのだと思っていた。その実、俺はあの万華鏡が見せてくれる景色だからこそ好きだったのだ。
 
 あの万華鏡は、俺にとってかけがえのない、唯一無二の存在だったのだ。
 俺は誰かに、あの万華鏡を欲する俺のような人に、万華鏡足りえることができているだろうか・・・。
 否。できていない。家でも会社でも、俺の居場所などどこにもないのだ。

「この程度のプロジェクトも満足に仕上げられないのか!!?もっと自分に自信を持て!!!」
 上司の声。
「まったく、あんたのそのぺこぺこする姿を見ると吐き気がするよ!!」
 妻の顔。
「何でお父さんが謝ってるの!?何も悪くないのに謝る、お父さんのそのくせ、大嫌いっ!!!」
 娘の存在。
 
 ほら。誰一人俺を労ってくれる者などいやしないのだ。

 こんな俺でも、昔は夢に日夜邁進していた時期もあった。
 高校時代。背の高かった俺は、バスケ部のキャプテンとして地区大会の決勝の舞台に立っていた。
 試合は白熱したまま中盤戦を迎え、俺のシュートがは決まれば逆転できるというチャンスだった。
 相手チームも負けたくなかったのだろう。勝てば決勝。当たり前だ。
 明らかに技量の劣る選手を投入し、勢いに乗る選手をファールでつぶそうという卑劣な作戦に出たのだ。その標的が俺だった。
 相手の作戦は見事成功。退場しても試合に影響ない新人で、キャプテンの俺を怪我で退場にすることができたのだ。
 そのことで、余計、闘争心に火が付いたチームは、そのまま相手を逆転。今までの苦戦がうそのように大きくリードを広げて地区大会決勝戦を物した。
 そして、キャプテン不在のままチームは全国でもベスト4にまで勝ち進んだのだった。
 そして、キャプテンである私は、その試合の怪我の後遺症により、利き手が肩より上に上がらなくなった。スポーツ選手としては致命的な怪我である。

 しかし、俺などいなくてもチームは全国でもベスト4に入ったのだ。
 おれなど、いなくても。

 それからだ。俺が、自分の存在に自身を持てなくなったのは。
「どうせ俺なんか」と自分を卑下し、さげすみ、できることなら消えてしまいたいと思った。
 何事にも消極的で、いつも心で私ではなく、ほかの誰かがやったほうがいいのではないかと思うようになっていた。
 反面俺は、高校の頃の、夢にまっすぐ向かっていたあの頃の自分に戻りたいとも思っていた。しかし、どうすればいいのか分からないのだ。人に敬語を使い、 謝ることで自分の殻に閉じこもり他人を遠ざけるようにすごしてきたのだ。
 今更、どうすればあの頃の、熱意の塊みたいだった私に戻れるのか。

 見当もつかなかった。

 再び俺の目の前に現れる万華鏡。俺を構成する今は無き歯車・・・。
 そして、高校時代の自分。今はなくしてしまった、熱意。
 俺はどうすればいいのだろう。どうすればあの頃のように自分生かすことができるのだろう。

 「みんな、教えてくれてるよ。」
 声がした。皆が俺に教えてくれている?
 昔の自分に戻る方法を?
俺に言ったことを・・・。

「もっと自信を持て!!」
 上司の言葉。
「あんたのそのぺこぺこする姿を見ると吐き気がするよ!!」
 妻の声。
「何でお父さんが謝ってるの!?何も悪くないのに謝る、お父さんのそのくせ、大嫌いっ!!」
 娘の叫弾。

 そうか・・・。私は自分に自身をなくしていたんだ。敬語と謝罪という二つの行為で殻に閉じこもり、自分を守っているうちに自分すら信じられなくなってい たのだ。
 少しずつでもいい。昔の自分にもどれれば・・・。
 俺の前にあった万華鏡を手に取り、覗いて見る。
 中は、まばゆいが輝いていた。回す度に具合を変えながら、赤、青、黄色。
 何万色にも変化していく・・・。

 そして・・・。

 俺が目を覚ますと、そこは見知らぬ天井だった。
「あなたっ!!」
「お父さんっ!!」
 横から叫ぶ妻と娘。
 どうやら俺は横になっているらしい。
「いったい・・・。」
 状況がつかめない。
「電車の中で意識を失っていたのよ」
 妻が私の手をにぎる。
 今が何日なのか聞いてみると、どうやら三日も意識がなかったらしい。

 それから、二日後に退院した俺は、またいつもの日常に戻った。
 俺の中では確実に何かが変わっていた。
 あの万華鏡が教えてくれたのだ。今の俺に必要なものを。
 だから、少しずつでもいい。変わっていけたら、それはとてもいいことだ。


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